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先輩インタビュー

“ALWAYS THINK” 考えるチカラは武器になる

代表取締役
水ノ上 貴史

会社の前身は、祖父がはじめた「銭湯」でした。

福山空襲で焼け野原になり、急ピッチでつくった家にはお風呂がない家が多かった。そこで、「お風呂の需要があるんじゃないか」と考えた僕の祖父が「銭湯」をはじめました。その後、どんどん家が建ちはじめ、家にお風呂があるのが当たり前になり、銭湯への需要が減ってきていました。その頃、銭湯の一角ではじめたのが、1961年創業の「富士製作所」です。住宅の需要が高まることを見込んで、銭湯が暇になる昼間に、住宅用の「雨どい金具」を作り始めたのがはじまりです。

好奇心旺盛で、モノを分解するのが好きな子どもでした。

その後、現在の場所へ移転し祖父と父と叔父の3人で立ち上げたのが現在の「広島金具製作所」です。私が生まれたのは、その数年後で、当時は3人で会社を経営していました。自分が小さい頃のことは、実はあまり覚えていませんが(笑)、いろいろなことに興味を持つようなタイプで、おもちゃの構造が気になって、分解してまた組み立ててみたり、コンセントの抜き挿しをしてみたり。でも釣り竿を持って遊びに行くのも好きで、どちらかというと活発な子どもだったと思います。

就職活動の時期は、ちょうどバブル崩壊直後。

当時の子どもはみんな将来のことなんて、何も考えてなかったと思います。「とりあえず大学に行っときなさい」という時代だったし、うちは家業があったので、なんとなく「自分が継ぐのかな…」とは漠然と思っていました。東京の大学に通い、就職先を考え始め出した頃、人混みの多い東京での暮らしは自分には合ってないなと感じ、地元に帰ろうと考えました。車が好きだったので、広島のマツダへの入社を目指していましたが、時はバブル崩壊後の景気低迷期。求人はゼロでした。

社会人のスタートは、自動車メーカーの一次下請け企業。

地元志向も強くて、車に関わる仕事を、と考えて、マツダの一次下請けの会社に就職しました。配属先は「原価企画部」。製品づくりにおいて、今より安く作るためにどうするか、を提案する部署でした。とにかくなんでも興味を持つタイプだったので、「もっとこうしたらいいんじゃないか」と新卒ながらも企画案はたくさん出して、いくらか役に立っていたと思います。

生活が苦しくなり、就職して1年で退職。

当時は景気もまだまだ悪い状態で、会社自体も業績が良くない。会社から「休んでくれ」とお願いされるようになり、給料も減り、どんどん生活が苦しくなる。これでは生活が成り立たないなと感じ、実家に戻って福山で職探しをすることにしました。就職して1年ほどで退職することになってしまいました。

「ちょっと手伝ってくれや」からはじまったヒロカネ人生。

当時から、雨どいの金具を作っていたのですが、まだ景気の影響は受けておらず、工場は忙しそうにしていました。親から「ちょっと手伝ってくれや」と言われ、そこからヒロカネ人生がはじまります。後継ぎで入ってこい、ではなく、とりあえず製品づくりに勤しむ日々でした。祖父や叔父は職人で、仕事に慣れてきた僕が「これはもっとこうしたらいいんじゃない?」というアイデアを出しても、「お前にはわからん」と言われ続けました。その頃からか、昔からのやり方に違和感を感じはじめていました。

会社を進歩させるために、まず自分の腕を磨きました。

祖父も叔父も父もだんだん歳を取っていく。大手の「安く!大量生産!」には勝てない。営業もいない、新規開発もしていない。会社に進歩がなく、将来が見えないと感じ、これは一つひとつ整理して、進歩していかねば!と、自分の中でそういう意識が芽生え始めました。とはいえ、まわりを動かすために、叔父にものを言えるようになるために、自分に生産技術の技量がないといけないなと思って、独学でスキルを上げていきました。1-2年でそんなレベルまでいけるものではなく、道のりは長かったですが、叔父が「お前の言うようにやってみるか」と言ってくれるまでになりました。

現状を進歩させるために必要だった「考えるチカラ」。

目の前にある問題に対して、もちろん愚痴を吐いたり、逃げ出したりしたこともありましたが、自分はやっぱり考えることが好きなので、「こうするためには、まずこうやって、ああやって…」という一つ一つやるべきことを明確にして、少しずつでも現状を変えていけるように辛抱強くやっていました。でも、これは私特有のものではなくて、「考えること」をクセづけることで、誰でもできることだと思うんです。これは、社員にも伝えている「ALWAYS THINK=常に考える」というメッセージにも込めています。

ヒロカネが生み出せる「価値」とは、「技術力」×「発想力」だ。

ヒロカネが生み出せる「価値」って何か。強みって何か。一つ一つ整理していきました。そこで行き着いたのが、「建築業界の人手不足お助け業」。近い将来、建築業界の人口は減少していき、外国人労働者が担い手となっていくだろう、と考え、「誰でも使いやすく、簡単に取り付けられて作業時間も短縮できる金具を新しく開発しよう」と動き出しました。これまで培ってきた「技術力」と持ち前の「発想力」を武器に、この10年やっていこうと決意したんです。

その製品の「価値の伝え方」が大切。

そこでゼロから企画し、何年もかけて開発したのが、現在の「吊ピタ君」です。近い将来、絶対この商品は現場でニーズが高くなると自信を持っていましたが、PRしても最初は全く売れませんでした。その時に、いくら良い商品でも、特許を取った商品だとしても、すぐに売れることはないんだと身をもって経験しました。金額も高かったので、その「価値」よりも金額を見られて、全く相手にされなかった。「価値の伝え方」を変えなければ売れないんだ、とその時感じました。

”ニッチトップ”を目指し、指名してもらえる存在に。

営業先の見直しを進めながら、展示会や板金職人さんが集まる場へ出店し、現場の声を伺ううちに、少しずつその輪が広がり、口コミでユーザーさんが増えてきた実感がありました。最近は板金屋さんもSNSをやられている方が多く、そこで「吊ピタ君最高!」「吊ピタ様です!」など、嬉しいお言葉をいただくように。ようやく私たちが目指していた「ニッチトップ=ニッチな部分で、必要とされる存在」になれてきたんじゃないか、と感じています。

「価値の創造」がヒロカネの強みになる。

最近では、新しい仲間を少しずつ増やしながら、社内の体制も整えてきました。経営理念には、「価値の創造」を掲げています。かつて福山の名も無い小さな製作所で、私たちの製品に価値を感じてもらえていなかった時代から、今では「ヒロカネのあの”吊ピタ君”っていう商品がすごいいいんよ!」と指名されるようになった。これこそ、自分たちで創り出した「価値」です。

社員のみんなによく伝える、ことわざ”ドロ縄”。

社員のみんなが働くうえで、会社として大切にしてほしい「行動指針」には、ここまでしつこく言っている「常に考えること」も掲げています。何か課題や問題が起きた時。基本的には、社員のみんなに任せて見守り、時にはヒントを出して考えてもらうようにしています。みんなには、ことわざの「ドロボウを捕らえて縄を綯う=”ドロ縄”になっちゃいかん」と伝えています。常日頃から、少なくてもいいから多少考えておくことで、いざ問題が立ちはだかった時に対処の仕方やスピードが変わってくるよ、と。

人として、ヒロカネで成長してもらいたい。

働いているみんなにも、これから仲間になる方にも、僕は人としての成長を願っています(実は、学校の先生もいいなと思ってた時期があり、人を育てたい願望があります)。「これができなきゃダメ」というのはありません。自分の成長のために、色々な仕事を経験してもらいたいですし、失敗を恐れずに新しいことにもチャレンジしてもらいたいです。うまくいかなくても、「次どうしようか」と一緒に前向きに考えてくれる先輩たちがいます。ヒロカネで一緒に成長していきましょう。